マネジメントの文明史 -ピラミッドの建設からGAFAまで-


1月14日

 こんにちは。

 今回は、武藤泰明さん著の「マネジメントの文化史」という本を紹介したいと思います。本書は、ピラミッド誕生から十字軍、大航海時代からの産業革命、世界大戦を通して、企業や組織のあり方の変遷、歴史について、英国•ドイツ•米国の3つの国を中心に述べられています。

 この本を読むことで、それぞれの国のマネジメントの違いや資源の違い、また、人種が持つ価値観の違いから生まれた、ビジネスモデルの変遷を理解することができます。歴史は繰り返すというように、現在のビジネスモデルを彷彿とされるような時代の変遷を見てとることができます。ビジネスにおけるヒントは、意外と、すでに足元にあり、実は、見落としていたりするのかもしれません。

 とても読みやすく、入門としておすすめの一冊です。是非、ご一読を。

 

 

目次

Part I 会社以前

Part II 大航海時代と会社の成立

Part 3 英国ー産業革命の成立•発展•衰退

Part 4 ドイツー大企業と重工業の誕生

Part 5 個人によるイノベーションと非営利組織の時代

 

Part I 会社以前

 まず初めに、本書では、利益を求め事業を行う経営と定義づける。

 会社以前、ピラミッド誕生の時代についてのマネジメント史の話をしよう。この文でわかるように、ピラミッド誕生の時代では企業や経営という概念は存在しなかった。

 実際のところ、ピラミッドを作っていたのは奴隷ではなかったことが明らかになっている。労働者に対価を支払って、作らせたものである。しかし、これらの労働者は、主に農業を営んでおり、農業の閑散期の出稼ぎで来ていた労働者のようだ。

 つまり、ピラミッドを建設することで対価をもらっていたが、ピラミッドの建設自体は利益のためではない。つまり、現在でいう一種の公共工事と言える。そのため、この時代には経営というものは、まだ存在していなかった。

 では、どうして経営というものが生まれたのだろうか。その答えを一言で表すなら、「交易」である。当時は国という概念がなかったので、部族と考えよう。部族と部族で、生産できるものが異なっていたから「余剰」を交換し始め、これが今で言う、「分業」にあたる。

 はじめのうちは、結果的に残ったものを交換していたかもしれないが、次第に、「こんなものを作ったら相手が欲しがるだろう」と多めに作るようになった。そして、そこには分業と専門化が生じるようになっていた。

 しかし、生産者が多めに作って交換するだけだと大した事業規模にはならない。そこで大きな役割を果たしていたのが、専門の貿易商人のような人々だ。貿易商人というような専門家が存在することで、格段にやりとりがしやすくなり、交易の量が増え、関係する地域や部族も増えていった。

このようにして、経営の前身となるような仕組みが生まれていった。

 

Part II 大航海時代と会社の成立

 大航海時代になると「交易」つまり、経営という仕組みが徐々に現代に近づいていった。

 ここで一つ質問をしよう。世界で一番古い会社はなんだろうか?

 きっと多くの人が「東インド会社」と答えるのではないだろうか。しかし、実際には、東インド会社以前、16世紀にはすでに英国で「新しい土地への冒険商人会社」が設立されており、これを母体として、1555年には北極海航路で交易を行う「モスクワ会社」が設立されている。実は、東インド会社が設立する前から「会社」という枠組みが作られていたのだ。そしてここからは、最古で最大な「東インド会社」が生まれたは背景について以下、説明していく。

 まず、現在のように、海の情報がほとんどない大航海時代の、海路による東アジアや中南米との交易は、かなりリスクが高かった。その結果、商人たちは船の持ち分を分割したり、海路と従来のルート両方を使ったりすることでリスクテイクの量を減らした。そして、この前者が会社の仕組みにつながっていった。

 つまり、「会社はリスクテイクのための仕組み」なのだ。 

 もちろん、会社という「仕組み」が突然出現したわけではない。中世において、船の所有権や航海権が分割されていたこと、あるいは15世紀に前例となる組織図や会社がすでに存在していたことを背景にもち、その経験の延長線上に「東インド会社」が存在する。

 事実、植民地支配を広めていった欧州諸国は、王の力だけでは、植民地までもを管理、支配することは出来なかった。そのため、本国からの集権的に経営するのではなく、各植民地、各地域で分権した経営の形が取られるようになった。

 このように、国家に出資してもらうのでなく、地方の資産家たちが出資をし、万が一のための時のリスクテイクのために、商人は合同で交易を請け負った。こうしたリスク分散の仕組みが成功した結果、「会社」というものが成り立つようになっていった。

 

Part Ⅲ 英国ー産業革命の成立•発展•衰退

 パート3では、英国の産業革命の成立から発展、衰退までの変遷を紹介している。

 まず、当時の英国の特徴として、株式会社の設立が禁止されていた。株式会社とは、複数人の出資者が存在し、資金を持ち寄ってリスクを分散し、事業を行うことが会社である。しかし、この株式会社が禁止されていた。そうなれば、出資者=経営者=唯一の労働者の経営スタイルしかできない。そのため、リスクをとるような事業規模の拡大や成長は難しかった。そのため、イノベーションを起こすような大企業は存在しなかったのだ。では、産業革命の進展を後押ししたものは一体何だったのだろうか。

 

 答えは「植民地」であった。つまり、経営をするための市場や相手が存在したことである。その中でも当時の一番大きな英国の植民地は「インド」であった。

 大航海時代、オランダやスペインが圧倒的な力を持っていたために、英国は出遅れ、仕方なくインドを植民地化した。しかし、ここで運が味方したのだ。当時のインドは、現地に租税を払えるだけの産業の蓄積があったのだ。そのため、交易という経営が成り立り、結果として英国の産業革命につながっていった。

 

  このように産業革命を後押しした背景には、「植民地という巨大市場を持っていたこと」と、そのほかの要因として「機械化投資で生産コストがインドより優位になったこと」が存在する。これらによって、繊維、綿工業で絶対的な優位に立つことが出来、需要と供給が十分に成り立つ「交易」いわゆる「経営」を世界で成功させたのだ。

 では、なぜ機械化が進んだのだろうか。その答えは「高賃金」である。18世紀、英国は工場労働者が不足する事態になった。その結果、「賃金上昇」がおこった。植民地との交易で発展していた湾岸部は賃金が高かったため、その都市部に人手を持っていかれないように、農村部でも所得上昇が実現していた。こうして、足りなくなった人手を補うために、機会を投入するようになり、機械化が進んだ。しかし、突発的に機械化が起きたわけではない。事実、英国には、すでに工業がある程度発展していた。手工業の熟練労働が機械工業の発展の基礎となっている。

 この産業革命の機械化による低価格での大量生産が、他国との貿易に優位性をもたらし、英国は莫大な富を獲得した。

 しかし、当時の国家収支を見てみると、英国の富は実は製造業ではなく、貿易や金融保険、投資によって生み出されていた。もちろん、製造業に競争力があるから貿易、保険等のビジネスができたのだが、産業革命の背景で、このように富が生み出されていたから、現在まで続く英国の繁栄があるのだろう。

 

Part Ⅳ  ドイツー大企業と重工業の誕生

 ドイツには創業が19世紀の会社が9社残っている。日本はどうかというと、旧財閥による企業が8つ、現在も残っている。しかし、英国にはこの時代の企業が1社も残っていない。日本やドイツは第二次世界大戦の敗戦で財閥・大きな組織は解体されたが、それでも形態を変えながら長く続いている会社がいくつか存在する。これに対して、企業解体を経験していない英国に古い企業が残っていないのはなぜだろうか。ドイツも日本と同じく戦争に負けている。にもかかわらず歴史のある会社が残っている。これはなぜだろうか。

 

まず初めに、ドイツか経済発展した理由としては、

•英国よりも後発のために最新鋭の設備を投入でき生産性が高かったこと

•英国の同族経営やパートナーシップの経営ではなく、巨大であったこと

•これまでに存在しなかった化学産業ビジネスを生み出したこと

 が挙げられる。そして、このイノベーションのための資金を調達しリスクを補うことができる銀証併営の銀行の存在も大きかった。また、ドイツは、植民地をほとんど持っていなかったために、高収益の海外投資に資金が流出せずに国内企業に投資されたこともメリットだった。

 また、英国の技術を応用したイノベーションの発展について述べるなら、イノベーションが計画の主体が会社だけではなく、行政機構にまで広まっていたことが大きな要因だ。その一つが「大学」の存在だ。一定の知識を持つ人を集めて、組織的な管理下で研究に携わるという仕組みだ。そうすることで新しいことが起こる場所が目に見えるようになったのだ。そして、そこで行われたのが「巨大科学」だった。

ドイツは国として特に研究開発に力を入れていた。その結果、巨大科学でイノベーションを起こし続けたために、会社は水平統合垂直統合し、その後も大きくなり続けた。

 

 つまり、戦争に負けても大企業が残った答えは「大きすぎたから」だ。大きすぎて代わりがいなかったのだ。これは日本の旧財閥系でも同じことが言える。財閥は解体されたが、「こっぱみじん」にされたら残らない。でも、残った。というより、必要だから残された。

それが、謎の答えだ。

 

PartⅤ 米国ーマネジメントと経営者の創出

 まずはじめに、米国の植民地としての特殊性を紹介しよう。確認しておくと、欧州諸国の植民地は、米国以外は商人たちが作ったものだった。つまり、欧州人がやってきて、現地人を支配する。しかし、米国は「移民による植民地」であり、欧州からの入植者が町をつくっていったのだ。要するに、被支配階級がいなかった。たしかに、支配者は英国だったが、英国王の権威の下に支配が行われていたわけではなかったのだ。

 また、産業革命を遂げている英国の支配下にあったため、米国もその影響を受け発展を遂げていく。英国の機械技術を導入したことで、米国は木綿工業と毛織物工業が同時期に飛躍的に発展していった。

 そして、ここからがアメリカらしい経営の話だ。技術革新を遂げ、産業が盛んになった米国だが、商品の綿織物と毛織物には決定的な違いがあった。それは、毛織物のほうが原料な品質が多いことだ。当時の市場状況は、羊の品種改良を進めた欧州品はら高級品として扱われ、米国品は中流品であった。このような背景で、米国の経営者たちは、「フルライン化」という経営戦略をとった。高級品から低品質までの原材料毛を用意し、さまざまな品質と用途の毛織物を生産したのだ。そうすれば、原料毛価格の相場が変動してもリスクが分散できるからだ。当時の米国には、フルライン型を扱う商人と単一商品だけを取り扱う商人が存在した。しかし、相場が高騰した際や、景気が不安定な際に単一販売の商人は淘汰され、結果的にフルライン型が生き残ったのだ。

 そして面白いことは、これまでの歴史で、英国やドイツにはフルライン型の会社は存在しなかった。これらのことから、筆者は、英国は「発明家」ドイツは「職人、技術者」が産業革命を推進したのに対して、米国は「経営者」が後押したと述べている。

 

 米国のアイデアの素晴らしさに世界はいつも驚かされる。その実例を挙げるなら「ネジ」だ。19世紀、当時の米国は鉄鋼で優位性を持っていなかった。そんな背景から生まれたのが、鉄加工製品の量産だった。そして生まれたのが互換性部品だった。19世紀の欧州では、機械について極論を言えば一品生産。これに対して米国企業は、互換部品の量産。つまり、修理しやすい商品を提供し始めたのだ。一品生産であれば、メーカーに持ち込み、修理しなければならないところを、互換部品の商品を使用しているユーザーであれば、壊れた部品だけを取り寄せ、自分で取り替えることが可能になるのだ。つまり、互換部品の発明で、遠隔地にも販売することができるようになったのだ。その結果海外で販売、拡大することが出来、米国の組織は大企業へと成長していった。

 

また、この考えを活用し応用し生まれたのが、フランチャイズ方式だった。(例えば某大手ハンバーガーチェーンのフィッシュバーガーなどもいい例だ。フィッシュバーガーのフィッシュは、時期や土地によって異なっている。一つのサカナに絞るのではなく、互換性を持って商品開発することで、万が一の際のリスクをとっているのだ。)

 

 このように、地理的な広がりをもつ米国のビジネスモデルは海外展開にそのまま使うことができ、その後、飛躍的に世界に大きな影響を与える大国へとなっていった。

 想像できるように、水平統合で大きくなった会社は、次第に垂直統合を余儀なくされ、ますます会社の巨大化が進んだ。しかし、会社の巨大化(独占)は国民にきらわれ、国や州から制限されるようになった。その結果、巨大化した企業は多角化せざるを得なくなり、多角化していく中で、大きくなりすぎた組織をうまく運営するための、中間管理職やマネジメント、事業部制が生まれていった。

 

PartⅥ 個人によるイノベーションと非営利組織の時代

 

 このパートでは、「巨大科学」が生まれたことにって可能になった個人による、ローコストイノベーションと非営利組織の時代について述べられている。

 巨大科学科学の時代の会社とは、社員が負えないようなリスクをとってくれる主体だった。失敗しても給料は変わらない、その代わり成功してもメリットの多くは会社のものになっていた。しかし、PCを使ったイノベーションであれば、初期投資はないも同じ。その結果、今日の社会では、会社に所属する必要がなくなっている。

 また、非営利組織の時代も到来してきているようだ。つまり、イノベーションの関与を開放的なシステムにする「オフワーク•イノベーション」の台頭だ。ウェブで繋がっている人が好きな時間に好きなだけ、好きな分野で参加し、オフの時間にイノベーションを実現するというものだ。そもそもの非営利のとしては、病院や学校が挙げられる。そしてこれらのが、経済産業発展において大きな役割を果たすように、非営利組織の方が大衆が参加しやすく、受け入れられるやすく、拡大スピードが早いのだ。

 また、現代の非営利組織の成長例としてはウィキペディアリナックスが挙げられる。しかし、ここで忘れていけないのは、多様な人がウェブで繋がればいいという訳ではないことだ。オープン、すなわち、開放、拡張にせよ、核となる存在が必要不可欠であるのだ。

 

 そして、最後に大企業はイノベーションにどうかかわっていくのか、筆者の考えを紹介していく。人生100年時代を見据えて、最近は特に株式投資をする人が増えている。 初期投資を抑えて起業できるようになったこと、リスクの分散ができるようになったことなど株式会社の組織体制には大きなメリットが存在する。

 しかし、その一方で、株式投資に頼ることによる会社の自己資本比率の低下が見て取れる。そしてこの自己資本比率の低下は、会社を「脆弱」なものにしかねないという負の一面を持っているのだ。

 会社のCEOは株主のために行動することを第一にすると主張する。でも、本当の目的はどうだろうか? 事実、かなりの割合で年俸を自社株で受け取る約束になっている。そのため、利益を出して、配当し、自社株を買って株価を上げる。利益が出なければ株価が落ちないようにもっと自社株を買う。間違っても研究開発投資はしない。このような会社はイノベーションなど起こせるわけがないのだ。

 とはいえ、イノベーションの前向きな組織は存在する。そして、イノベーションを起こすための研究開発には、資金が必要だ。そして、株主に出資してもらわなければならない。しかし、イノベーションには、大きなリスクが存在する。自己の利益を追求する出資者であれば、リターンが確実でない投資先に進んで出資をするだろうか。

このように、四半期利益を求める投資家との間には深い溝が存在しているのは確かだ

 

では、なにがそれを埋めていくのか。

 一つ目の答えは「A &D 」つまり、イノベーションを起こした企業を買うのだ。新たなアイデアは、それだけでは巨大企業へと成長していくのは難しい。だから、大企業が、自社のイノベーションプールを少し外に拡大して、事業化し、イノベーションの効率を上げていくのだ。

 二つ目の答えがCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)つまり、大企業が自社の事業展開に必要となる可能性のあるベンチャービジネスに投資するのだ。

 もしベンチャー事業が成功すれば、大きなリターンをもたらす。仮に、本業へのリスクがゼロだとすれば、ベンチャー事業に投資をしたとしても、損失の最大値はイノベーションに出資した金額だけになる。つまり、リスクが大きくない。大企業はベンチャーに投資しやすいのだ。

 そしてこの大企業のCVCは、成功した起業家が少ない日本で、有効な手段となるのではないだろうか。

 

いずれにせよイノベーションを起こし続けるものが生き残るのだそれは、歴史が証明している。

 

 

 

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謝辞:今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。このサイトでは要約や著者が心に残った部分を述べているので、より理解を深めてもらうためにも、是非、本書を手に取ってもらえたら幸いです。閲覧ありがとうございました。

 

参考文献:武藤泰明(2020年 日経BP 日本経済新聞出版本部)『マネジメントの文明史ーピラミッドの建設からGAFAまで』